なごみごはん

偏屈なヲタクのひとりごと

全力の「個」を感じてしまったので

思えば、昨年のユニ活休止以来、滝沢さんの本気全力のタレント活動が怒涛のように繰り広げられて一年、そのままの流れに拍車をかけて、活動に区切りをつけるべくもはや暴走を続けている。暴走列車滝沢秀明。この一年ほぼお休み無いでしょ。完全プライベートのダイビングとか火山だって行けてるはずないよね。とにかく完走しようと思ってるでしょ。完走って何だよ。もうその「完」という漢字一文字すら嫌いだよわたしは。

怒涛の雑誌ラッシュにインタビュー、時代劇にドラマ撮影がアップしたら、DSに、特別公演の準備、平社員さんもやってるみたいだし、バラエティ番組にも出るんだね。そうそう歌舞伎2018DVD・BDの発売に、合間に来年からのプロデューサー仕事の準備だって始めてるもんね。そりゃ痩せるわな、ごはんちゃんと食べてたって休む暇ないんだから痩せるわ。何も変わらない。確かにそうだと思う。きっと彼はこれまでもずっと頭の中は次の舞台や演出の構想や妄想でいっぱいだったんだろう。何なら来年からは自分が出なくていいところで休めるとでも思ってたりすんのかな。

歌舞伎DVDを三形態購入して、特典しかまだ見れてないし、本編は当分見る予定がない。わたしの”千穐楽”は、まだもっと後でいい。最後の最後に何かしらのメッセージがあるらしいけど、それもまだ要らない。わたしにはまだとても見られる代物じゃないことくらい想像できる。怒涛の雑誌ラッシュは読んでるよ。片っ端から読んでる。今日はビジュアルが超絶美しいSODAを入手して、スキャニングしながらインタビューをゆっくり読んでいて確信した。ユニ解散を発表した直後の、らしくなくやけに長文だった滝沢連合から2ヶ月あまり、この2ヶ月の期間で彼の言葉は、すっかり「個」としての発信に変わった。あの日「みんなに大きくしてもらった滝沢は、こんなに強くなれました」というようなことを書いてあったのだけど、その「強くなれた」という言葉の意味を感じている。悩んで悩んで悩みぬいて辿り着いた結論と覚悟というものも否応なしに感じさせられている。滝沢さんは「信じて」とか「感じて」という言葉をよく使う。それってどちらも目に見えない不確かなもので、それを「時間をかけてゆっくり伝えていく」と発言している。だけどその伝え方も、表情や文字や音声に乗らなくなったら、わたしは一体どこから受け取ればいいんだろう。今のわたしには想像できない。

それで「個」としての発信だ。今回のSODAは、わたしにとてもわかりやすい。圧倒的美のビジュアルで堂々と表紙を飾り、一際大きな白文字で「滝沢秀明」と名前がある。そこには計算も配慮も調整の欠片もない、ただ滝沢秀明が全力でドン!と存在している。そこには「個」で立つ覚悟のようなものが滲み出ている。だからなおかっこいいし美しい。滝沢さんがずっと言い続けている「感じる」ことのできる「滝沢秀明」がそこにいる。表紙見ただけで、わたしはたくさん感じることができた。

それまでの滝沢さんには、どこかユニットを感じる何かがあった。それは想いとは限らないが、だからわたしはユニを望み待ち続けてきた。彼の意識がそこにあるなら、わたしはそれを求めようと思ってきた。だけど今はそれを感じない。そして今井さんのラスト更新ブログからは「終焉」しか感じない。あの時すでに今井さんの心がそこにもう残ってなかったのよ。ありがとうが言えないわたしに対して、今井さん、ありがとうがたくさん並んでた。だから今はユニを求める気持ちが薄れている。二人の想いはもう今そこにない。タキツバは今も好きだよ。望まないわけがない。だけど今あの頃の二人が感じられない。

ユニットを望む声を否定はしない。だけど、今のわたしはそこにいない。その前にまずは滝沢さんの言葉の意味を追いかけたい。その意味をちゃんと感じられるまで「わかったよ」と言えないから。「終わりではなく始まり」という言葉の意味を、ちゃんと感じられるように心研ぎ澄ましていたい。「必ず笑えるように僕がする」という言葉を信じているから、まずは笑える日をちゃんと迎えたい。